「個性」とは何?~子供・保育・子育てでのとらえ方~


「個性」ってなんだろう?
「個性」という言葉は、よいニュアンスを持ってよく使われています。しかし、いまの大人たちはこの言葉に苦しめられてきたとも言えます。
いま大人になっている人たちは、「個性的であれ」とさまざまな場面で言われてきたのだけど、それとは裏腹に実際の学校や社会では、型にはまるように求められることが多く、そう言われる割には個性を育めるような教育や育てられ方をされてはきませんでした。
実のところ、それを求めていた頃の大人たちも本当の意味で「個性とはなんなのか?」が、わかっていなかったのかもしれません。習い事などの宣伝文句として「お子さんの個性を伸ばします」などとしきりに言われていた時期もあります。
例えばなにかの習い事を習得したとして、場合によってはそこから派生してその人の「個性」につながることはあるかもしれませんが、習い事を身につけること自体は実のところ「個性」とはあまり関係のないことです。
「なにかを他者に優れて習得しているということ」、そのことは周囲の人と違うという差異であって、本当は「個性的」なのではなくて、「個別的」ということです。
同じように、例えばその子に世界でその人しかいない珍しい名前をつけたとしても、それはその子の個性になったのではなく、”他者とは違う”何かを身につけているということで、本当の意味での個性とは違います。
「個性」とは、その人個人の身の内にある“性質”ということであって、周りの人がつけたり、はずしたりできるものではありません。
このように、これまで「個性」ということが今一つ理解されず、「他者と違うこと」と「個性」が混同されたまま、「個性、個性」ともてはやされてきたところがあります。
保育のなかでの「個性」
保育の現場でも、さまざまにこの「個性」にまつわる考え方が出てきます。
保育理念や保育目標の中でも、「子供の個性を尊重して…」「ひとりひとりを大切に…」「個々の人権に留意して…」などなど。これらをきちんと理解して保育実践をする上でも、「個性」という言葉を適切に理解することは大切だと思われます。
まずひとつ知っておいて欲しいのは、これまで一般的に「個性」という言葉を「美点」というニュアンスで理解している向きがありましたが、本当の意味で子供の「個性」という言葉を考えた時、必ずしもそれは「美点」ばかりではないということです。
むしろ、保育の中で子供に向き合う時に出てくる”個性を尊重する”という言葉の意味は、「その子の欠点すらも尊重する」ととらえておくといいでしょう。
保育や子育ては、”学校でものを教える”といったこととは違います。子供になにか足りなかったり、欠けている点があったりしたとしても、それを最初からいきなり「どうにかしなければ」と考える必要はありません。
“できないこと”、”足りないこと”、”言うことをきかないこと”などがあったとしても、まずは受け止めてあげてよいのです。否定せずに受け止めたあとに、「では、この子のためになにができるだろう?」と問題意識を持つことから子供を尊重した関わりは始まります。
子供のネガティブな点をみたとき、「これではいけない、なんとかしなければ」と思う前に、一拍おいてその姿をも“ありのままに受け入れる”。これはほんの些細なことのようですが、この視点を大人が持つことで、子供へのアプローチは大きく変わります。
かつては「個性」を否定して、「正しいこと」を求めていた
具体的にはそれはどんなことでしょう?
以前は小学校などで、食事量が少なく、食べきれない子を給食の時間が終わってもそのまま食べさせ続けるといったことが当たり前にありました。
僕が小学生だった時のことです。身体が小さくとても少食の友達がいました。その子が給食を食べきれないでいると、その時間が終わって掃除の時間になっても食べさせられ続けるといったことがありました。その子が半ベソをかきながら頑張って食べようとしていたことを子供ながらに覚えています。
さて、このようなことはもはや現代ではないと思いますが、ここには個性を正しく理解していない大人の考え方が表れています。この子を指導していた先生も、その子によかれと思ってそのようにしていたのでしょう。
その先生には、まず最初に「こうあるべき」「こうならなければ」という子供に求める「正しい姿像」があります。この場合は、「給食を残さず食べられるようになるべき」というものです。
食べられない子がいたとき、そのビジョンにのっとって、「食べられるようにしなければ」と考え、そのための手段として「食べられるまで努力させる」ということをしています。
しかし、この先生は「子供に求めるべき正しい姿像」のビジョンがあまりに強すぎるために、この子の個性を無視するという状態に陥ってしまっています。
食事を食べられる量というのは、これはもう人それぞれです。つまり個性のあることですね。確かに、少食の子がいたら健康や成長のために「食べられるようになって欲しい」と大人はその子のために望みます。しかし、その子の個性を超えてまでそれを望むのは酷な場合もあります。
泣きながら給食を食べさせられていたこの子にとっては、まさにそうだったことでしょう。その子の自尊心を傷つけ、「自分は他の子と同じようにできない劣った子だ」と劣等感や、疎外感を持たせてしまっていたのではないでしょうか。
保育・子育てで大切なのは「結果」よりも「意欲」
大人がいくら「正しいことである」「その子のためである」と考えたとしても、それの押しつけになっては意味がありません。別の見方をすると、大人のこうしたアプローチは「結果を短絡的に求めすぎている」とも言えます。
安全に関わることや、「どうしても、いまできなければならないこと」であればしかたありませんが、子供には常に成長しています。その長いスパンのなかで、少しずつでいいので「自分のちから」で前進していくことが大切なのです。
大人が無理やりやらせて目に見える結果だけを出したとしても、実のところ少しもその子のプラスにならないこともあるのです。
子供が自分のちからで前進していくために大切なのは、”成長への意欲”、”モチベーション”です。そのモチベーションを育み、子供が自分から笑顔で前向きに成長できることが大切だと僕は思います。
そのために、「できない姿」「欠点」であっても、“あるがまま”に大人が受け止めてあげることが重要になってくるのです。
これは子供に限らずですが、人は自分のことを認められてはじめて前向きになることができます。また、認められることで、その認めてくれた人への信頼感を覚えます。
それが厚く形成されることで、ことさら「ああしなさい、こうしなさい」と子供の姿をこねくり回さずとも、子供はその大人の望んでいる方向へと進んでいけるのです。
いますぐできなくとも、子供には未来があります。また、成長しようという意欲はどんな子も持っています。
個性を尊重し、ネガティブな点であってもありのままに一旦受け止め、大人の考えの押しつけではなく子供の主体性(自分からとりくむこと)を重んじて、「信じて待つ」という姿勢を持っていられると、子供のいい形での成長を目にすることができるでしょう。
ここで例に挙げた給食指導のようなことは、いまではないかもしれませんが、同じような構造を持った子供への対応はいまだに多く見られます。そのため「個性」というものをきちんと理解することは、子供へのよりよいアプローチのためのプラスになることでしょう。
この視点は、発達に特徴の強い子、家庭や生育歴に問題を抱えた子、障がいを持った子などの保育でも生きてくることと思います。
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