個性を踏まえた子どもとの関わりとは?~否定の保育にならないように~


前回は、子供の個性について述べました。
世間一般では、個性というと「美点や長所を作ることや伸ばすこと」のように考えがちですが、本当に保育や子育ての本質的なところで大切になってくる個性のとらえ方は、「その子の欠点すらもありのままに受け止めてあげること、肯定してあげられること」といったお話でした。
前回の記事はこちら≫『「個性」とは何?~子供・保育・子育てでのとらえ方~』
今回は、個性のとらえ方を踏まえた上で子供への関わり方の実践を考えていきたいと思います。
「できない」が子供の本来の姿
子供にはたくさんできないことがあります。子供に関わる大人は、無意識にそのできないことをできるようにすることが自分の役割だと考えてしまいます。確かにそうでしょう。学校の先生は、子供に勉強をできるようにさせることが役割で、習い事の先生ならば、習い事を習得させることが仕事です。
では、保育園の保育士はどうでしょう?保育士も、さまざまな生活習慣や集団での行動、きまりごと、遊びを通した経験など、もともとできないことに力をつけさせできるようにさせることが、役割となっています。
しかし、それだけでないのが保育の難しいところであり、また面白いところでもあります。
ここで、保育園の存在意義の基本を振り返ってみましょう。保育園は、「家庭に代わって子供を育てる」という、家庭の代替機能が本質としてあります。言ってみれば、親代わりになる部分が含まれていると言えるでしょう。だからこそ、文科省下の学校である幼稚園と、厚労省管轄の保育園とは違います。
保育園は学校ではありません、家庭代わりなわけです。
子供は学童期になり、学校へ行ったり、他の外の世界に出たりするようになると、できることを課されたり望まれたりすることが多くなり、それが当たり前になります。家庭は、もちろんできることを望みはするけれども、かといってできないからと子供を見捨てたりはしません。
「できないところもあるけど、かわいい我が子」そう思えるのが親であり、子供にとってはどんな自分でも肯定され安心して過ごすことができるのが家庭です。
保育園は、全く同じではないにしても、家庭の代わりとなるべく存在している場所です。それゆえに「できないものをできるようにする」一辺倒ではないわけです。
「否定」の保育にならないで
では保育園の存在意義を踏まえて、「個々を大切にするという視点」で子供への関わりを考えてみましょう。
例えば、集団行動をしていて馴染めない子がいた場合。保育士は、集団行動ができるようにと考え働きかけていきます。働きかけること自体は間違っていません。しかし、その中身はさまざまです。
発達段階が幼くて行動についていくことがそもそも難しい子。家庭での受容不足から、大人への信頼感を十分に持ち切れていない子。また、受容不足のために自分への注目が欲しくて、保育士の注意を惹きたくなってしまう子。自己肯定感が低く、ものごとに取り組む自信がないために、かえっておふざけなどの行動を取ってしまう子など…。
そういった子供に、目の前の行動だけをできるようにとするだけでは十分な関わりでない場合もあります。場合によっては、保育士の働きかけが、その子を押し潰してしまうことすらあります。程度にもよりけりですが個性のとらえ方を適切に理解していなければ、その傾向は強まってしまうでしょう。
できることを重視して「できなければならない!」と関わると、その子への関わり方は否定の色が濃くなっていきます。できることに意識が強まれば強まるほど、濃くなってしまいます。
注意したり、叱ったり、怒ったり、または従わないその子の姿を見て落胆やうんざりとした顔色を出してしまったり…。子供は、そんなところからも意識せずとも、自分に対する否定感を感じとり蓄積させてしまいます。その子が、否定の関わりを通してでもできるようになり、最終的に肯定することの可能な子ならば、それでもいいかもしれません。
しかし現代では、一人ひとりの子供には個性があり、なおかつその個性は尊重すべきものであると考えられるようになっています。発達状態だけでなく、その子のおかれた家庭環境などもさまざまです。
子供の中には多様な個性があり、「当然できるべきだ」と大人が考えるようなことであっても、やりたくてもできない子だっています。そういった子に対してまで、できるようにと一辺倒の関わりをしていては、その子は否定され続け、自分の居場所を失ってしまいます。
保育園は、家庭の次に安心して過ごせる場所でなくては、家庭の代替になり得ません。
多様な個性を許容することで保育が変わる
保育以前に、日本の子育て観は「子供をできるようにする」という意識が非常に強いです。子供ができなければ、叱ったり怒ったりしてでもやらせるというスタンスをこれまで当然のものとしてきました。
叱ったり怒ったりしない人でも、モノで釣ったり、ごまかしたり脅したり、またはおだてたり褒めたりすることで、子供の姿を大人の望むものにさせようとすることも…。そういった関わりによって、かえって育てにくい子にしてしまうケースも多く見られます。
そのように、できないことを好ましくない状態だと考えすぎて、子育ての多くの場面でできるようにしなければととらえているので、子育てそのものに余裕がありません。しかし、子供というのは本来が未熟なできないものとして生まれてくるのですから、できない姿を頭ごなしに否定しなくてもいいのです。
そのことを理解しておくだけで、実際の子供への関わりは変わってきます。
不特定多数の子供が来る保育園という場で、できるばかりを重視していては、認めてあげられない子が出てきてしまいます。いわば、その大人の意識がおちこぼれを作ってしまいます。家庭の代替であるはずの保育園が、おちこぼれを作っていいわけがありません。
だからこそ、できるようにすることは大切であるけれども、一人ひとりの子供の個性を踏まえてできない姿すらも受け止めてあげられる姿勢が保育士には必須になってくるのです。
なぜ僕が、ほいくらいふのこの場をお借りして、このようなことを保育士やこれから保育士を目指す人にお伝えしたいかというと、現実の保育のシーンではこれらのことが必ずしも達成されているわけではないからです。
どの人に聞いても、「子供の個性は尊重しなければならない」という答えは返ってきます。しかし、日々の保育実践の中で必ずしも個性を理解し行われているとは限りません。
特に陥ってしまいやすいのが、今回述べたできるということを子供への関わりの最初においてしまうことから引き起こされる、個々の否定のケースです。
本来ならば、こういった個性の理解や個々の尊重は、保育原理や保育理論の中でどの人も学んできていることです。しかし、保育の現場で、個性や尊重は漠然としか理解されていないために実践に活かされていないことや、効率ばかりが優先されて個々の子供を理解や尊重するよりも「言うことを聞かせる」だけの保育になってしまっていることもあります。
以前の記事でお伝えしたように、かつては家庭での余裕や大人への信頼関係の構築があるために、園ではできることを求めることばかりで済んでいたものが、現在では同じようにはいかなくなっているという、時代の変化からくるものもあって、今後はさらに真剣に個性や個々の尊重について保育士は考えていかなければならなくなっていることでしょう。
次回、実例を交えてさらにこの問題を考えていきたいと思います。
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midorinoyubiさん(2016年1月15日)
なるほどー。できる・できないは目に見えるわかりやすいものさしですが、子どもの心の中では目に見えない様々な動きがありますものね。自分の保育を振り返るよい機会となりました。
ホエールさん(2016年1月19日)
そうですね、様々な家庭環境で育ってきた子が集まる集団の場所のわけですから…。そして幼稚園に行っている子よりもやはり保育園に来てる子のほうが時間も長いわけですし家庭の要素が大切になりますね。
私たち保育士の仕事でその子の一生が決まると言っても過言ではありませんね。この記事を読んで仕事に対する熱意がまた高くなったと思いました。