子どもの自主性と主体性~”支配と管理”から”受容と信頼”へ(後編)~


「”支配と管理”する保育から”受容と信頼”する保育へ」をテーマに全3回に渡ってお伝えしています。
前編の記事はこちら≫『子どもがついてくる保育を!』
中編の記事はこちら≫『保育で1番大切なこと』
園の理念や保育目標で、「子供の自主性・主体性を尊重する」「自主性・主体性を持てる子」など、自主性と主体性という言葉や考え方をしばしば目にします。
もちろんみなさんも保育を学ぶ中で、”自主性・主体性”という考え方に接してきているでしょう。
しかし、”自主性・主体性”の意味を保育で必要なレベルで本当に理解し、実践することは簡単ではありません。なぜなら、そもそも”自主性・主体性”という言葉は適切に理解されていないからです。
今回は、保育における“自主性・主体性”をより適切に理解することで、より良い保育実践につなげてもらいたいと思います。
保育における”自主性・主体性”を保育士が理解していると、保育を子供の”支配・管理”にしてしまうことを防ぐことができます。また、ここを明確に意識化することで、子供の成長をより意図的に後押しできるようになっていきます。
“自主性・主体性”は2種類ある!
子供自身の活動における自主性・主体性
“自主性・主体性”と聞くと、多くの方が次のようなことを思い浮かべるのではないでしょうか。
これらは確かに”自主性・主体性”で合っています。保育の学校でもこのようなことを”自主性・主体性”として教わっているでしょう。確かに合っているのですが、これらは見えやすくわかりやすい方の”自主性・主体性”であり、”子供自身の活動における自主性・主体性”です。
ここであげているケースの、自主・主体が何を対象としているかというと、遊びや行事などの取り組み・活動です。
- 子供=主体 遊び=客体
つまり
- 「(遊びや活動を)やらされる」のではなく「自主的に」
「(遊びや活動を)与えられる」のではなく「主体的に」
ということですね。
これも保育においては大切な視点です。しかし、保育においては別次元での”自主性・主体性”が存在します。そして、それを理解することは、保育の質を一変させることにつながっていきます。
保育における子供の自主性・主体性
では、“別次元での自主性・主体性”とは何でしょうか?
- 「子供自身の活動における自主性・主体性」 ⇔ 「保育における子供の自主性・主体性」
保育において、最も重要な”自主性・主体性”の視点は、「大人と子供、どちらが主体でどちらが客体か?」ということです。
この視点は遊びや活動のみならず、日常生活の行動全てに事細かに関わってきます。それらの一つひとつは、ほんの些細なことでもあるのです。
例えば、このようなシーンで…
これは、大変”雑”な保育です。無意識かもしれませんが「小さいからどうせわからないだろう」という意識があり、雑な保育になっています。
0歳でも、1人の人間として尊厳を持っています。保育士は子供に対するプロフェッショナルですので、それを踏まえて保育する必要があるでしょう。
尊厳ある人間を相手にしているのですから、相手が何歳だろうと黙ってオムツを触るのは失礼です。尊厳を踏まえた保育をするならば、子供に声をかけながら行っているでしょう。
子供の顔を見ながら「ちょっと失礼」とか、「オムツどうですか?」などと声をかけて相手に意思を疎通させる気持ちを持って接します。
「あ、いっぱいだね。取り替えようか?」と確認して伝えたら、子どもは発達段階に応じて、保育士のアプローチを受け入れる準備をすることもあるでしょう。
まだそのような発達段階でなかったとしても、声かけを積み重ねることで徐々に成長させていくことができます。
初めから「どうせ小さいからわからないだろう」と思って関われば、子供はそのようにしか育ちません。大人がその子の能力を信じないことによって、その子の発育の上限はそこまでにされてしまいます。
例え現段階ではわからないとしても、今後の成長・自立を踏まえて一人の人間として接していくことが大切です。
子供はモノではないのですから、柵越しにやり取りすることも失礼ですよね。なので、まだ自分から歩いていけない段階の子でも柵は開けて対応するべきです。
自分で歩ける段階の子でしたら一緒に歩いて行くなり、歩いて行かせるなりの対応をします。歩けない子に対しては、歩ける段階に進ませるためにも成長を見据えて、柵はその都度開け閉めする必要があったわけです。
オムツを替える時も作業的に替えるのではなく、「いっぱい出たね。じゃあキレイにしますよ。」「はい、キレイになりました。さっぱりしたね。では、新しいのを履きます。」「足を入れて、今度は洋服の袖を通します。」など、言葉や表情を使って伝えながら子供と一緒に行っていきます。
効率ばかり優先させ、オムツ替えなどを無言の内にベルトコンベアー式にして関わるのと、”自主性・主体性”を踏まえて日々の関わりを積み重ねていくのでは、子供の成長の姿は大きく変わっていきます。
保育における子供の自主性・主体性の問題
保育士の配慮・子供への見方次第で、一人ひとりの発達状況に応じて、少しでも子供を主体にしていくことは可能です。
しかし、オムツの例のように0歳児相手の保育では、一つひとつの行動の主体を100%大人にしてしまうこともできます。子供をモノであるかのように、「やらされる存在」と考えてしまえばそのようになります。
これが「保育における子供の自主性・主体性」の問題です。
対象である子供が小さければ小さいほど、大人は「どうせできないわよね」といった気持ちが無意識に芽生えてしまうので、この問題は乳児ほど顕著にみられます。”自主性・主体性”を自我が明確に発揮されてからの問題だと考えている人は少なくありませんが、実はそうではありません。
別の例をご紹介します。やはり、0歳児クラスです。
この場面で、子供の”自主性・主体性”を踏まえるのであれば、別の対応が導き出されます。
言葉を理解する方向に育てていく必要があるので、現在その子がその言葉に敏感に反応するかしないかは別として、伝わるものと思って丁寧に言葉をかけていきます。
まだ発達段階が低い子であれば、近くに寄って顔を見て「ご飯ができましたよ。行きましょうか」と声をかければ良いでしょう。
その子が自分で食卓まで行ける子であれば見守り、まだ行くことが難しい段階ならば、手を伸ばして抱き上げる準備をして、その子が自分から抱き上げられる態勢になるのを確認してから抱き上げます。
言葉の理解が進んでいる子であれば、「○○ちゃん、ご飯の用意ができましたよ」と伝えて、理解や行動するのを待ってあげても良いでしょう。
大人の配慮次第で、子供の日々の経験・積み重ねは大きくも小さくもなるのです。自身の意思や存在を尊重されながら育ってきた子は、年齢が上がっても大人や周囲の子の意思や存在を尊重しやすくなります。
子供には成長の連続性があります。
「0歳の子はどうせわからないだろう」と思って日々の保育をしてしまえば、その影響は1歳の時も5歳の時も出てきます。
より真剣な保育をしようと思えばどのような些細な関わりであっても、保育士は配慮、配慮の連続です。そのように丁寧な保育をすれば、子供の姿に明らかな結果を出していくことでしょう。
“自主性・主体性”の尊重は”支配・管理”を防いでくれる
次は、幼児クラスの例です。
もしかすると、一見これは上手い方法に見えるかもしれません。
しかし、これは子供自身がその子の力として自主的、主体的に取るべき行動を身につける方向へのアプローチを捨て、大人が設定した決まり・ルールの枠に当てはめる関わりへとシフトチェンジしてしまっています。
それは、支配と管理の始まりです。
そのように子供の行動を作り出すことを考えていくと、多くのところで同じような方向性の働きかけがなされていきます。ルールを作り守らせることで、保育士は自分の仕事が全うできたと勘違いするようになっていくでしょう。
大人の管理によりルールの型に当てはまった状態を、子供がそれらの力を身につけたと錯覚してしまうのです。
そのテープやルールを取り去った時、元の困った状態が復活してしまうのであれば、ル―ルを守っていた状態は自主的、主体的に身につけられたのではないということです。管理、支配ありきで保育が成り立っていたのです。
そのようになっていくと、本来家庭に代わりくつろぎ、伸び伸びと過ごせるはずの場である保育園が”施設、施設”していきます。
“援助の視点”を身につけ”自主性・主体性”を子ども側におく
子供の姿はバネのようなものです。押さえつければ、その勢いをどこかで跳ねて表します。保育士はそれが困ると思うと、もっと強く、常に押さえつけ続けなければならなくなります。
保育士が、保育においてのレベルで自主性・主体性を理解していないと、保育はいつのまにか支配や管理になっていくでしょう。そうなると、その園の保育士は支配・管理が上手いことが良い保育士の条件になっていきます。
家庭・地域の養育力が多くあった30年、40年前の時代であればともかく、女性の就労状況の激化や保育の長時間化、低年齢化などが進む現代において、支配・管理の多い保育は本当の意味でその子に最善の利益を与える保育ではなくなってしまいます。
テープを貼った事例で考えると、テープを貼ることによって大人が望む状態を作り出すことがそこで取るべき保育のゴールだったのではありません。
さまざまなケースが考えられますから、必ずしもテープを貼ることが悪いのではなく、子供の姿を管理することで作ってしまうことをアプローチの結論としてしまうのが考えるべき問題なのです。
並ぶ際にトラブルが多かったり、落ち着きがなく待つことができなかったりするのなら、「その子たち個々がどうしてそれが上手くできないのだろうか?」と考え、その原因にアプローチする形で保育を展開していく必要がありました。
ある子は、家庭で過保護なために自立心が成長しておらず他児とのトラブルが多かったのかもしれません。またある子は、受容不足ゆえに他者に余裕を持って関わることができなかったのかもしれません。
更には、あまりに普段から強い刺激に慣らされてしまっているために落ち着きがない子など、多様な子供たちの姿が現代にはあるので、保育士はそれらを踏まえた上で、個々や家庭に対する適切な働きかけをすることが必要になってきています。
僕はこのような子供の見方を援助の視点と呼んでいます。
個々に必要な援助をしていくことで、”自主性・主体性”を子供側においた保育が成り立っていきます。
それは、力技で子供の姿を作り出してしまうことに比べると遠回りのようですが、長期的な目で見ればずっと近道です。
子供は自分のことを押さえつける人には厚い信頼を寄せませんが、自分のことを尊重し援助をしてくれる人にはきちんと信頼を返していきます。その信頼感は、効率的に子供を支配していくよりも、ずっとよい形で子供に成長を遂げさせていくのです。
それは、支配や管理で子供を保育士の望む姿にしようとするよりも、結果的にたやすく子供をあるべき行動へと導けるのです。
そのように保育が組み立てられるようになると、保育の仕事は日々やりがいを実感できるものとなっていきます。
なぜなら、普段の何気ないことの中でも、子供と心がつながっていることを感じられるようになりますからね。
そうなると保育の仕事は本当に楽しく、また素晴らしいものとなりますよ。
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≫保育士おとーちゃんのブログ
ホエールさん(2016年9月9日)
今まさに悩み最中の問題で、心に突き刺さりました。
難しいです。
やはり、どこかに支配がうまれてしまっています。
このような記事をみる度に、勉強になるのと同時に保育士としての力量に自信がなくなりつつあります…。
自分の保育、見直します。
みぴょんさん(2016年9月11日)
言葉を1つ1つ選ぶことで、子どもとの信頼関係が生まれることが分かりました。
保育士としてだけではなく、家での育児でもイライラしてしまうこともありますが
子どもとよく向き合って行きたいと思いました。
匿名さん(2019年10月5日)
自立心や受容等は、教育者がどうこうできる領域では無いように思います。
確かに、教育は人を思い通りに作り上げる魔法ではない。
だからこそ、援助者たる教育者にできる事は、テープで線を付けるなどの環境調整、構造化を行う程度である、とも言えます。
さしあたり、それで教室運営の進行が大きく狂ってしまうことの実害が大きいのです。
ただ、ベテラン保育者に、人を尊重できない横暴なオバサンが多いのはつくづく実感しています。
私も現場のボス格の指導方針に違和感抱きまくりで日々激しく葛藤、須賀さんの記事を読んで溜飲を下げております。